第30回 “台湾の英雄 湯徳章(とうとくしょう)のルーツ・宇土” (温故知新〜うと学だより〜)

2018年03月13日

 湯徳章(日本名:坂井徳章)という人物をご存知でしょうか?おそらく彼の名前を知る人はほとんどいないでしょう。

 2016年末、作家の門田隆将さんが、『汝、ふたつの故国に殉ずー台湾で「英雄」となったある日本人の物語ー』というノンフィクション作品を出版されました。日本人の父と台湾人の母の間に生まれ、日本と中国という大国のはざまで激動の時代を生き抜き、「英雄」として殉じた一人の青年弁護士・湯徳章の物語です。門田さんは、著書の中で、徳章のルーツは宇土であると書かれています。

汝、ふたつの故国に殉ずー台湾で「英雄」となった日本人の物語ー

『汝、ふたつの故国に殉ずー台湾で英雄となったある日本人の物語ー』

発行:株式会社KADOKAWA 著者:門田隆将

明治8年(1875年)

 徳章の父:坂井徳蔵は、明治8年(1875)に宇土町で生まれています。徳蔵の父:坂井民治は、宇土本町で酒造業やロウソクの原料となるハゼの栽培など手広く商売を行っていた宇土有数の資産家で、門内に屋敷を構えていました。民治は、明治22年に行われた第1回の宇土町会議員選挙で当選し、明治25年にも再選を果たした名実ともに宇土町を代表する名士でした。

 民治の長男である徳蔵は、家業を継がず、坂井家を二人の弟に託し、日清戦争の勝利により日本が獲得した台湾に渡り、現地で警察官となりました。明治35年、徳蔵が27歳の時に台湾人女性の湯玉と結婚し、5年後の明治40年に長男:徳章が誕生します。しかし、当時はまだ日本人と台湾人の結婚は認められておらず、徳章は母の姓で育ちました。

大正4年(1915年)

 大正4年、徳蔵が勤務する警察派出所が現地の暴徒に襲撃された西来庵(せいらいあん)事件で、徳蔵は命を落とします。残された徳章は、父の志を継いで警察官になりましたが、昭和14年(1939)に高等文官試験の勉強のため妻子とともに東京に向かいます。東京では、父徳蔵の弟:坂井又蔵の世話になりながら、中央大学で法律を学び、当時最難関の国家試験と言われた高等文官「司法科」と「行政科」(現在の司法試験と国家公務員総合職試験に相当)に合格します。その後、昭和18年に台湾に戻り、台南市で弁護士として新たな人生を歩み始めます。

戦後

 戦後、日本の統治下から離れた台湾には、中国・国民党軍が進駐します。国民党軍による1947年の台湾弾圧事件(二・二八事件)以降、民主化を求める台湾人と国民党軍の対立は激化の一途をたどります。

 当時、台南市の指導的立場にあった徳章は国民党軍に身柄を拘束され、厳しい拷問の末、銃殺により命を落としました。徳章は自身の命と引き換えに多くの市民の命を救い、死の間際には、日本語で「台湾人万歳!」と大声で叫んで亡くなりました。

現在

 現在、台南市では英雄:徳章の命日にあたる3月13日を「正義と勇気の日」に制定し、亡くなった場所は「湯徳章紀念公園」と名付けられ、徳章の胸像が建てられています。

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