宇土市の歴史年表

2012年04月01日

前15000

宇土市最古の人類生活の痕跡(田平遺跡)

前7000(縄文早期)

押型文土器が作られる(石ノ瀬遺跡・田平遺跡)。漁ろう活動が盛んになり、貝塚が形成され始める。

前5500(縄文前期)

轟式土器・曽畑式土器が作られる。轟・曽畑(そばた)貝塚(サイト内リンク)にドングリ貯蔵穴が造られる。

前3000(縄文中期)

西岡台貝塚にドングリ貯蔵穴が造られる。土器製作台に鯨の骨を利用する(西岡台貝塚)。

紀元前後(弥生中期)

宇土半島でも稲作が行われる(境目遺跡から籾の痕がついた土器出土、境目遺跡・宇土城城山遺跡から石庖丁出土)。北部九州の甕棺墓が宇土半島基部まで分布する(境目善導寺遺跡・宇土城城山遺跡・北平遺跡・畑中遺跡:女性人骨の足元から鉄片出土)。

300(古墳前期)

巨大な墳丘をもち、竪穴式石室に割竹形木棺や舟形石棺などを納めた前方後円墳が宇土半島基部に造られ始める。

  • スリバチ山古墳:全長96メートル
  • 迫ノ上古墳:全長54メートル(竪穴式石室、割竹形木棺)
  • 城ノ越古墳:全長43.5メートル
  • 三角縁四神四獣鏡出土御手水古墳:全長65メートル
  • 向野田(むこうのだ)古墳:全長86メートル(竪穴式石室、舟形石棺)
400(古墳中期)

全国的に巨大な古墳が造られる。

  • 天神山古墳:全長110メートル(県下最大級)
  • 初期横穴式石室出現(城2号墳)
  • 楢崎(ならさき)古墳が造られる
  • 家形石棺が造られる(晩免古墳・神ノ山1号墳)
  • 石障系横穴式石室が造られる(城1号墳・ヤンボシ塚古墳)
500(古墳後期)

横穴式石室が主流となる。

  • 線刻で船を描く装飾古墳が造られる(梅崎古噴・仮又古墳)
  • 横穴が造られる(小部田横穴群・尾ノ上横穴群・大平横穴群)
  • 椿原古墳が造られる。
750(天平勝宝2年)(平安時代)

宇土郡大宅郷の戸主として額田部君得万呂が見える。

790(延暦9年)

豊野村浄水寺の石碑に宇土郡名がある。

938(承平8年)

この頃、宇土郡に諫染・桜井・林原・大宅の4郷あり。

947(天暦元年)

伊勢物語に風流島が詠まれる。

1221(承久3年)(鎌倉時代)

蓮華王院領肥後国宇土庄が見られる。

1239(暦仁2年)

三日(さんち)大曽の宝塔銘。

1260(正元2年)

寒巌義尹、尼修寧とともに如来院を創建(如来寺釈迦如来胎内銘)。

1269(文永6年)

義尹、素妙尼の請いにより三日山如来寺を開山(如来寺遺跡)。

1347(正平2年)(室町時代)

足利尊氏、国毎に一寺一塔を建立(寿勝寺を肥後安国寺に、利生塔を如来寺の塔に定めた)。

1348(正平3年)

征西将軍宮懐良親王、宇土津に来着。

1350(正平5年)

宇土壹岐守高俊逆修碑。

1356(正平11年)

古保里庄、宇土壹岐守高俊が拝領。

1390(元中7年)

宇土城、今川貞世(了俊)に攻め落とされる。

1404(応永11年)

肥後国郡浦庄地検帳に網田の坪名がみられる。宇土為光、応仁・文明・文亀の頃宇土城主。

1482(文明14年)(戦国時代)

三日六地蔵銘。

1501(文亀元年)

宇土為光、肥後守護職を奪う。

1503(文亀3年)

宇土為光、菊池能運に敗れる。

1504(文亀4年)

名和顕忠、宇土城に入る。

永正元年

如来寺、上古閑に移る。

永正年中

名和伯耆守、椿原に宗福寺を建てる。

1538(天文7年)

宇土城火災。

1542(天文 11年)

宇土城再び火災。

1549(天文18年)

宇土行興、六殿宮の楼門寄進。

1550(天文19年)

阿蘇氏、郡浦・網田を宇土に譲渡。豊福城代皆吉武真が内乱を起こし、宇土城を攻める。

1551(天文20)

大友宗麟、肥後に侵入、宇土城を攻める。

1564(永禄7年)

豊福城主名和行直、宇土城に入る。行直、網田を攻める。

1565(永禄8年)

豊福城、相良氏に帰す。

1579(天正7年)

宇土顕孝、島津氏に降る。

1580(天正8年)

島津義久、網田城(田平城)を攻める。郡浦・網田を顕孝に与える。

1587(天正15年)

宇土顕孝、豊臣秀吉に降り、開城。加藤清正、宇土城の城番。佐々成政、肥後国主になる。肥後国衆一揆が起こる。

1588(天正16年)

小西行長、宇土・益城・八代17.5万石を領する。

1589(天正17年)

新たに宇土城建設に着手(近世宇土城)。宇土城跡天草国人一揆が起きる。行長、天草を領する。

1591(天正19)年

行長、肥前名護屋城築城に参画。

1592(文禄元年)

秀吉、行長を朝鮮遠征の第1軍団の大将に命じ出兵(文禄の役)。

1594(文禄3年)

行長の家臣、小西飛彈守如安が、日本側の講和使節に選ばれ北京において和平条件を定める。

1597(慶長2年)

行長、肥前名護屋城を出発(慶長の役)。

1600(慶長5年)

関ヶ原の戦い。行長、西軍に加わるも敗れ、京都六条河原で斬首。清正、宇土城を攻める。宇土城開城。

1608(慶長13年)(江戸時代)

この頃、清正により宇土城修築される(宇土城跡出土瓦銘)。この頃、立岡堤が築かれる。

1612(慶長17年)

宇土城、幕命により破却。

1632(寛永9年)

細川忠利、肥後国に移る。手永制度(宇土郡は松山手永と郡浦手永)。

1633(寛永10年)

細川立孝(宇土細川家初祖)、三万石を分知。

1637(寛永14年)

天草・島原の乱起こる。江部村にいた天草四郎の母姉捕まる。

1646(正保3年)

細川行孝(初代)に、宇土・益城の内3万石を内分、宇土に移す。

1651(慶安4年)

この頃、細川家菩提寺宗功寺(泰雲寺)を建立。

1652(慶安5年)

行孝、宇土に入部(陣屋敷)。

1664(寛文4年)

宇土の水が不良のため、轟水源から陶管を連ねた轟泉水道が完成する。

1690(元禄3年)

行孝、江戸にて卒.細川有孝(2代)、家督相続。

1703(元禄16年)

有孝、隠居.細川興生(3代)、家督を継ぐ。

1724(享保9年)

住吉神社に高燈籠を建設し、航海の安全を図った。

1735(享保20年)

興生、隠居し梅山と号す.細川興里(4代)、家督を継ぐ。この頃、宝性院に寺小屋温故堂を開く。

1740(元文5年)

興文、西岡神宮に獅子舞奉納(宇土の御獅子舞:熊本県無形文化財指定)。

1745(延享2年)

興里、卒.細川興文(5代)、家督を継ぐ。

1756(宝暦6年)

宇土町、熊本町同様の扱いとなる。

1757(宝暦7年)

西岡神宮において、冨講を興行する。

1763(宝暦13年)

藩学温知館を設立。

この頃、轟泉水道の大改修を行う。

1769(明和6年)

再修轟泉碑を建てる。

1772(明和9年)

興文、隠居し月翁と号す。細川立礼(6代)、家督を継ぐ。

1773(安永2年)

蕉夢庵、成る。この頃、鹿夢亭、成る。

1787(天明7年)

立礼、肥後藩相続、斎茲(10代)と改める。細川立之(宇土藩7代)、家督を継ぐ。

1792(寛政4年)

肥前島原雲仙岳爆発、肥後沿岸一帯に津波来襲(旧宇土郡で数千人の死者)。山道喜右衛門、肥後細川家藩窯として網田焼を開窯。

1818(文政元年)

立之、卒。細川立政(8代)、家督相続。浦新地を築く。

1822(文政5年)

綱田焼、献上中止。

1826(文政9年)

立政、肥後藩相続、斎護(10代)と改める。細川行芬(宇土藩9代)、家督を継ぐ。

1835(天保6年)

斎茲、卒。(熊本市泰勝寺)。

1840(天保11年)

不知火諾右衛門、第8代横綱免許。

1841(天保12年)

住吉新地起工、天保14完成。

1851(嘉永4年)

行芬、隠居。細川立則(10代)、家督を継ぐ。この頃、立則、武館を創建。

1855(安政2年)

花園堤、完成。

1857(安政4年)

網田新地、完成。

1860(安政7年)

斎護、卒。(熊本市妙解寺)

1862(文久2年)

立則隠居。細川行真(11代)、家督を継ぐ。

1864(元治元年)

参勤交代制廃止に伴い、定府屋敷造成。

1865(元治2年)

行真、樹徳斎を設ける。

1870(明治3年)(明治時代)

宇土藩廃藩

1876(明治9年)

神風連の変。

1879(明治12年)

第百三十五国立銀行創業。

1880(明治13年)

自助社創立。

1892(明治25年)

私立鶴城学館設立。

1894(明治27年)

日清戦争。この頃、宇土町に電灯がつく。

1895(明治28年)

九州鉄道宇土停車場出来る。

1896(明治29年)

九州商業銀行開業。

1899(明始32年)

九州鉄道三角線が開通。

1931(昭和6年)(昭和)

満州事変。

1941(昭和16年)

太平洋戦争始まる。

1945(昭和20年)

宇土町空襲。

1958(昭和33年)

市制施行。

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