宇土市は九州のほぼ中心部にあり、地理的に重要な位置を占め、古くから歴史的にも栄枯盛衰の場となり、現在に至っています。
上網田町の田平遺跡からは、旧石器時代後期(約2~1.5万年前)の遺物が出土し、古くから人々が生活を営んでいたことが確認されています。
縄文時代になると、全国的にも著名な前期(約6000~5500年前)の轟貝塚と曽畑貝塚が、市街地を挟んで宇土半島山塊の裾と雁回山の山裾に営まれています。
弥生時代には、北九州カメ棺文化圏の南限として複数の遺跡が分布しています。
古墳時代になると、地理的条件から九州でも古い時期の古墳が造営されています。
近世になると、肥後は加藤清正とキリシタン大名で有名な小西行長(左図)の分割支配となり、肥後の南半分を領した行長は、宇土高校の裏地(城山)に城を築きました。しかし、関ヶ原の合戦で小西氏が滅んだ後は、肥後の全域が加藤氏の領地になりました。その後、小倉から肥後に移封された細川藩(肥後)の支藩3万石として栄え、今でも当時の文化遺産が、私たちの日々の生活の中で脈々と受け継がれています。
廃藩置県後、宇土は熊本県南における商工業の中心地として明治経済史に大きな足跡を残しています。九州商業銀行の本店が宇土に置かれ、九州各地に支店を持つなど、当時の繁栄がしのばれます。
昭和29年4月1日、全国町村合併のトップをきって旧宇土町、花園村、轟村、緑川村、網津村の5町村が合併して新宇土町が発足。昭和29年10月1日には、飽託郡走潟村と不知火村伊無田を編入合併、昭和31年4月1日には、下益城郡富合村三拾町地区の編入合併があり、昭和33年10月1日に網田村が編入合併(人口34,252人)して市制を施行し、現在に至っています。